話し手=中村京子 文=人民日報海外版 何雁

中村京子さん
中国に渡ったのは少女の頃
私は福岡県の片田舎で生まれ育ちました。1945年5月、中学を卒業したばかりの私は、3人の同級生と共に遼寧省錦州市にあった満鉄(南満州鉄道株式会社)の看護師学校に第5期生として進学しました。進学後まもなく、8月15日、敗戦の日、日本が無条件降伏したことが校内の放送で流れました。
9月になると八路軍(中国国民革命軍第8路軍、中国人民解放軍の前身)の負傷兵が病院に運び込まれるようになりました。10月末、私たちは下の広場に集められました。八路軍の院長が通訳を通じて私たちに伝えたのは次のような内容でした。「中国国内の戦況はとても緊迫したものになっている。国民党軍はすでにこの街に進軍しており、我々八路軍は撤退を余儀なくされている。我々には医療者が不足しているため君たちの力が必要だ。我々八路軍と共に逃げる意思のあるものは、今夜6時半、病院の正門のところに集合するように」 と。
八路軍は私が生まれて初めて出会った軍隊でした。彼らはとても親しみやすく、私たちが日本人だからといって蔑んだりしませんでした。私は虜囚の身というものがどういうものなのかあまり考えたことがなかったので、八路軍について行くことに特に不安はありませんでした。当時、私はまだ15歳で、何としても生きのびなければならないという思いもありました。