西洋の近代的活字製法と活版印刷術が日本に導入されてから140年になります。その短くはない時間の中で、日本語の活字は多くの職人や活字設計者の手で改良を加えられて現在に至っています。日本の近代活字史では多いとはいえない研究者の地道な努力によって、全体像がじょじょに明らかになってきましたが、それでもすべてが解明されたというわけではありません。
西洋近代的活字制法和活版印刷术引入日本已经有140年了。在这段不短的时间里,日语活字经过了无数手艺人和活字设计者的改良,才成就现在的样子。日本近代活字历史在为数不多的研究者勤恳踏实的努力下,虽说总体面貌已渐渐明朗,但却没有完全阐述清楚。
長い間活字史の書き出しは、阿蘭陀通詞本木昌造の試行錯誤の苦闘によって日本独自の活字群が生まれたとするのが一般的でした。しかし漢字活字や仮名活字はすでにその何十年も前からヨーロッパでは開発が進んでいたという事実を知れば、きっと驚かれるに違いありません。
一般来说,悠长的活字历史的开端,是荷兰翻译本木昌造几番错误试验的艰苦奋斗下诞生的日本独有的活字群。但是,如果知道汉字活字和假名活字早在几十年前就曾在欧洲开创过的事实,一定会吓一跳吧。
あるものはパリの東洋学者のアイディアで開発され、あるものはベルリンの活字鋳造業者によって長い時間をかけて作られましたし、イギリス人宣教師とアメリカ人宣教師は香港で鋼鉄の種字材を相手に苦闘していました。そのほかにローマの布教聖省でもインドの内陸部でも、マカオのイギリス東インド会社でも、そしてはるか遠い中国四川省でも開発されています。それらの活字の一部が上海に集積され、万策つきた本木昌造の要請によってアメリカ人の印刷技師が一八六九年、極東のはずれの日本に伝えたものです。(中略)その国独自の文字活字ももとをただせば国際的環境の中で発想され、開発されたものなのです。
某些东西是巴黎的东洋学者的创意开发,某些东西是柏林的活字铸造业者花了很多时间制作而成的,英国传教士和美国传教士在香港与以钢铁为原材料的活字模型苦战恶斗。另外,在罗马的布教圣省、印度的内陆地区、澳门的英国东印度公司、甚至是在遥远的中国四川省都在进行开发。其中活字的一部分在上海聚集,受无计可施的本木昌造的请求,由美国的印刷技师于1869年传播到远东尽头的日本。(中略)日语活字修正了本国独有文字的活字本身,并在国际环境中进行了构思和开发。