「私たちはいつか富岡町に、私たちの祖先が暮らしてきた場所に戻りたいと思っている。もう戻れなくなったことは誰もが知っているが、この希望を捨てきれないでいる」吉田さんは、富岡町の住民の多くがこのように考え、自分の生活を維持していることを知っている。政府から提供された仮設住宅は無料だが、広々としているとは言いがたく、何とか住める程度のレベルだ。東京電力による原発周辺の住民への賠償については、事故発生から間もなく2年が経とうとしているが、まだ具体的な方針が定まっていない。幸い、現在は毎月10万円の慰謝料が支払われている。吉田さんの仕事の中心は、定年退職者を仮設住宅に入居させることだ。彼らは年金を支給されており、生活費の心配はない。
「富岡町の人は毎月これほど多くの金をせしめて、潤いある生活を送っている」このような噂が吉田さんたち、富岡町の住民の所にも伝わっている。しかし富岡町の住民の苦しみを知る者はいない。多くの人は定年退職前にマイホームを建て、退職後に海沿いの風光明媚な場所で余生を送ろうとしていた。若い人は、銀行ローンでマイホームを購入していた。ローンは毎月銀行に返済しなければならないが、家の主人はそこに住む機会を永遠に失ったのだ。
日本政府はすべての家庭に、2世代・3世代の家族が一緒に住める環境を提供できず、かつての隣人(富岡町の隣人など)を一ヶ所に住まわせることもできない。生活は再スタートを切る必要がある。原発事故を受け、旧交は電話や数ヶ月に一回の対面によってしか温められなくなった。
富岡町以外の人は、ここの苦しみを理解できないだろう。吉田さんは、「それでも私たちは生き続けなければならない。私たちは原発事故にあい、手も足も出なかった。しかしこのような事故を経験したからこそ、事故が私たちの今の生活に直接的な影響を及ぼしているからこそ、暮らしを大切にし、力強く生きていくことを学んだ」と語った。
「中国網日本語版(チャイナネット)」