当時、帝政ロシア軍は中国の東北地方を占領し、撤退どころか、様々な無理な要求を出していた。1903年4月29日、中国人留学生500名余りが東京で集会を行い、ロシアの中国侵略を糾弾、その場で東北に戻り戦場の前線で敵軍と戦うための「拒俄(抗露)義勇隊」を結成、その後「学生軍」に改名し、軍事訓練を始め、女学生たちも救護隊を作った。しかし、彼らがまだ帰国しないうちに、外国に媚びていた清政府はこの動きを恐れ、抗露愛国運動を謀反とし、日本政府に対し取締りを要求した。それにより、学生軍は帰国して戦うことができなくなり、「学生軍」から「軍国民教育会」に改名した。当時の清政府駐日公使の蔡鈞も、国内へ送る電報の中で留学生たちについて、「抗露と銘打って、革命を起こそうとしている。現在既に帰国している者について、各都市は厳しくチェックし逮捕すること」と攻撃した。清政府は留学生たちの帰国活動を厳禁し、沿海の各要衝で厳しい捜査、逮捕を行なった。清政府のこの正義にもとる行動は、逆に留学生たちの反感を強める結果となった。彼らは、そこに清政府の西洋に対する媚びや売国、人民弾圧の本質を見出し、中国を救うにはまず清政府を倒さなければならないと認識、多くの留学生が愛国運動から反清政府運動の道へと進むようになった。
もう一つの重要な動きが、1905年の取締り規則への反対運動だった。1905年11月、日本文部省は清政府の要求の下、中国人留学生の革命活動取締規則を公布した。これはすぐに中国人留学生たちの大きな反感を買い、次々に集会を開き抗議活動を行なうようになった。12月5日、留学生たちは東京の富士見楼で集会を開き、取締規則は中国の主権を侵し、中国を傷つける行為で、断じて許せないとして、皆で授業の集団ボイコットを決め、中には退学後帰国して抗議すると決意した者も少なくなかった。12月8日、留学生の一人で優秀な革命広報活動を行なっていた陳天華が、日本人の差別と侮辱に抗議するため、海に身を投げ自殺した。彼の死は、留学生全体に大きな衝撃を与えた。これにより、ボイコットや退学の動きは更に加速し、2000名余りの留学生が授業のボイコット後帰国した。このような事態に、日本政府は譲歩を迫られ、取締規則の一時停止を発表した。これにより、留学生たちは団結闘争の力を確信し、愛国から革命への転換を加速させる結果となった。
「中国網日本語版(チャイナネット)」
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