留学生たちは、中国人に新しい思想や文化を伝えることを自身の神聖な責任であると考えていたため、日本で多くの定期刊行物や雑誌を作り、様々な書籍を翻訳出版していた。西洋と日本における資産階級の新思想新文化を自ら消化し、改造を加えて、広く留学生や中国国内の知識層に向けて情報発信していたのである。20世紀初頭に留学生たちが出した刊行物は実に70~80種類、翻訳編集した書籍は数百種にも及んだ。留学生たちはその数も多く精力的だったため、それらの書籍は種類も多く、内容も新しく、当時の人々への啓発や革命世論への影響はかなり大きいもので、中華民族の覚醒と民主革命を力強く後押しした。
留学生たちは西洋の民主革命思想を広めると同時に、西洋や日本の社会主義、更にマルクス主義思想の学説にも接し始めていた。初期の社会主義思想やマルクス主義思想は日本にいた留学生を通じて中国に伝わったものである。留学生たちは西洋資産階級の政治学説を吸収・消化し、中国の実情に合わせて各種資産階級民主革命の文章や著作を書いた。当時、革命思想の広まりに大きく貢献したのが、留学生の鄒容が書いた『革命軍』だった。これは中国近代史上初の旗幟鮮明且つ系統的に革命と資産階級共和国を広めた著作だった。鄒容は『革命軍』の中で熱く叫んでいる。「巍巍たるもの、それは革命なり、皇皇たるもの、それは革命なり…革命なくしてわが国の独立はなく、革命なくして世界の列強と肩を並べることはできず、革命なくして20世紀の新世界に中国はない!」と革命の必要性を訴えている。彼はまた、革命の原因、意義、目的、方法について語り、資産階級共和国の建設を鼓舞し、愛国と革命とを理論的に統一したのである。この文章により、彼は清政府に捕らえられ、獄中で病死した。しかし、彼の書いた『革命軍』がつけた革命の炎は清政府も消すことができなかった。『革命軍』は中国国内と日本で広く流行し、20回余りに渡って翻刻され、100万冊以上印刷されたという統計もある。魯迅も「その影響力を語るなら、他のどんな言葉も「革命軍の一兵卒」である鄒容の『革命軍』の明白さには勝てないだろう」と述べている。
「中国網日本語版(チャイナネット)」
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