李娜選手や孫楊選手の身の上に起こったことは、人々にますます避けて通れないある問題を強く意識させた。明らかに個性が重視される時代の流れにおいて、スポーツ選手の個性は当然ながら許されるものなのか?スポーツ界のスターたちの個性はすでに公序良俗で許容できないほどに肥大しているが、このような個性はこれまで通り持ち続けるべきものなのか?現在のスター選手の個性はすでに目に余る、単なるわがままへと変貌しており、いったい誰がこの恐ろしいわがままを抑制できるというのか?
中国スポーツ界の発展過程において、李娜選手や孫楊選手が創った記録や業績はほかの誰にも取って代われるものではないし、真似できるものでもない。しかし、このような功績は2人を中国スポーツ界のシンボル的な人物にさせ、自分の個性をわがままへと進化させていい理由とはならない。スター選手がすべてにおいて完璧である必要はないというのも分かるが、人を不快にさせる行動をスター選手が度々繰り返すことを受け入れることは難しい。李娜選手や孫楊選手が悟るべきなのは、人々がスター選手を受け入れるのにそんなに長い時間を必要としないのと同様に、最終的にその人物を嫌い、見放そうと思うのも、長い時間は必要としないということだ。
テニスコートやプールで自分たちがすべきことをやる。これこそが李娜選手や孫楊選手が自身の影響力の基礎固めにつながる。テニスコートやプールの外では、李娜選手や孫楊選手は情勢を見て、自我をコントロールし、個性をわがままと勘違いせず、わがままな行動によって人々の心理的な怒りに触れないように努め、同じように積極的に方向性や現実的な意義を備えるようにするべきだ。
「人民網日本語版」
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