日本のある学者は、福田ドクトリンの登場は、1974年に田中角栄首相が東南アジア5カ国を歴訪した際に大規模な反日デモに遭ったことと直接関係があると指摘した。福田氏のマニラ演説の起草に参加した枝村純郎元駐インドネシア大使は「田中角栄が東南アジア訪問時に遭った反日デモによって日本人は問題の深刻性を認識した。福田ドクトリンはトヨタ車が焼かれる洗礼の中で生まれたものだ」と指摘した。
日本が東南アジアを侵略した歴史について日本国内には2つの全く異なる見方がある。1つは東南アジア諸国を助けて欧米植民地主義者を追い払ったという「解放史観」。もう1つは東南アジア侵略は罪だとする「贖罪史観」だ。東京大学の保城広至准教授によると、田中角栄氏の1974年の東南アジア歴訪までは「解放史観」が主流だった。例えば吉田茂元首相はフィリピンと戦後賠償問題を話し合った際、賠償金は贖罪ではなく日本経済発展のための投資との考えを堅持した。「田中角栄が東南アジアで遭遇した出来事によって、日本は東南アジア諸国に強烈な反日感情があることを目の当たりにした」。その後の日本が東南アジア政策を策定する際に、贖罪意識は大きな影響を与えた。
趙氏によると、現在日本は1970年代の福田ドクトリンに背いている。福田ドクトリンには排他性がないが、安倍氏の打ち出した「東南アジア外交5原則」は攻撃性を持つ。「もし日本が福田ドクトリンに立ち戻ることができれば、東南アジアの平和と安定、および東南アジアでの日本の発展の双方にメリットがある」。趙氏は「安倍氏の推し進める価値観外交は実行レベルで大きな困難を抱える。東南アジア各国には各々自らの利益があり、価値観外交によって抱き込むことはできない」と指摘した。
「人民網日本語版」
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