1978年、靖国神社の秋季大祭期間中、14人のA級戦犯が秘密裏に合祀された。1985年に、中曽根康弘首相(当時)が首相の立場で靖国に参拝し、中韓の激しい批判を受けた。中曽根氏本人もこの行動が外交騒動に波及するとは予測できず、靖国を参拝することは国民感情の尊重であり、国ために犠牲になった戦没者に哀悼の意を捧げることであるとした。
今日に至っても、日本の政客は依然これを理由に参拝を続ける。安倍氏は4月、国のために尊い命を落とした英霊を参拝するのは当然と発言した。一見まともな理由のように聞こえるが、実際には善悪の線引きを曖昧にするものだ。誰が国のために命を捧げたのか、靖国神社に眠る数百万という侵略戦争の戦没者は「愛国者」だったのか。もしそうであれば、侵略は日本の「愛国」になってしまう。東京裁判の法律と理論的基盤に違背するのは明らかであり、これも日本の精神の内在的分裂である。
中韓等の国にとって、靖国神社問題は宗教上の問題ではない。日本が侵略を認めるか否かが肝心なのだ。日本の政客が正々堂々と戦犯を参拝できるなら、日本は「加害者」としての罪を払拭するのと同じであり、中韓等の国はかつて侵略で負った傷に対して目をつぶるということになる。日本は靖国神社以外に、心の拠り所はないのだろうか。
戦後日本は米国の主導で民主化政策を進め、憲法、議会など近代的な政治構造を構築していったが、精神面では、天皇制や靖国神社といった象徴を保留した。日本は精神面の根本的な変化はなく、戦後の経済発展が日本人をエコノミック・アニマルに変貌させた。80年代、中曽根氏の「戦後政治の総決算」の中で、日本を正常な国へと導くための精神的支えを求め、靖国神社参拝は政客が「日本性」を呼び起こすための重要な一環となった。その後小泉氏が参拝を繰り返し、中日関係は一気に冷え込んだ。
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