▼側室文化が日本の伝統
日本で美少女文化が盛んなのは、歴史の要素もある。源氏物語(1001~1008年)の時代やその後の武士の時代まで、貴族や武士はごく普通に大きな後宮を持っていた。貴族や武士の家には美少女が全国から集められ、彼女らを主人公にした文学作品も数多く作られた。ただ当時は身分制度による格差が大きかったため、彼女らの真の姿は、一般庶民にはうかがい知ることができなかった。それで想像で書かれた彼女らの生活が「俗文学」として広まった。
武士の時代なると、高位に出世した小人物が、高貴な身分の女性を手に入れることができた。当時、一部の貴族や武士の妻は10歳前後に結婚している。豊臣秀吉は低い身分の出身だが、関白になるや身分の高貴な美少女を側室にした。徳川家康は30歳過ぎで祖父になったが、60代になってからも10代の側室との間に男の子をもうけている。
明治維新後、日本は西洋の教育や服装を取り入れ、女の子はみんなお揃いのセーラー服を着て学校に行くようになった。日本の伝統的な服と違って、女子高校生が着る学校の制服はデザインが大胆で「露出する」部分も多かった。そのため男性の想像力を大いにかき立てた。ただ表面的に西洋化しても、日本の社会では女性を男性の付属物とみなす文化は変わらなかった。学校に通い就職する機会が増えても、結婚すれば家庭に入るという習慣が続いた。そのため「制服時代」だけが女性にとって青春文化を謳歌できたのである。
現代における日本の流行文化の読者や多くの作者は、高校生か大学生でなければ、これらの年代をよく知っている人である。彼ら(彼女ら)にとって、セーラー服の少女を幻想系のストーリーの主人公にすることは、最も受け入れられやすく、かつ普通の創作スタイルである。流行文化はつまるところ商品文化である。商品の買い手と売り手がともに「女子高生」に詳しければ、美少女文化がブームになるのは当然の成り行きであろう。
社会心理から見ると、日本には昔から男尊女卑の考え方があり、女性の社会的地位は低かった。エドウィン・O・ライシャワーは『ザ・ジャパニーズ・トゥデイ』の中で、「日本の家庭では母親が父親より大きな役割を担っている。男の子は母親をとても慕っており、それが日本の美少女文化の基になっている」との見方を示している。
「中国網日本語版(チャイナネット)」
|