1950年6月に設立された撫順戦犯管理所はかつて、900人余りの日本の戦犯の改造に成功した。これらの戦犯は帰国後、「中国帰還連絡会」(中帰連)を設立した。中帰連のメンバーは長期にわたり、講演や著述を通じて、日本の侵略の歴史を証言してきた。軍国主義を復活しようとする人たちの挑発にもかかわらず、彼らは、罪を認め戦争に反対する声明を不断に公開発表し、「撫順の奇跡」と呼ばれた。メンバーが高齢化し死去していく中で、中帰連は解散を余儀なくされたが、日本の若者によって「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」が設立され、中帰連の反戦平和事業は受け継がれた。2005年、中帰連は共同で資金を集め、撫順戦犯管理所内に「謝罪碑」を立てた。さらに2006年、撫順の奇蹟を受け継ぐ会の資金調達によって、埼玉県に戦争記念館と記念碑が設けられた。館内には、日本の細菌部隊の状況を示した文書が集められ、戦犯として中国撫順に収容された元中帰連会員の侵略戦争に関する証言や戦争に関する書籍など、合わせて2万点余りの展示物と資料が収蔵されている。日本を加害者として捉えた有名な記念館としてはさらに大阪国際平和センターがある。記念碑には、戦争の非人道性と平和の大切さが刻まれている。しかしこうした場所は往々にして、日本の右翼勢力の攻撃を受けやすく、記憶の「保護」と「暗殺」との戦いが最も激しい場所でもある。「南京大虐殺」の展示台の前では、右翼の学者が幾度にもわたって「南京大虐殺の徹底検証集会」を開き、南京大虐殺を否定しようとの試みがなされた。記憶の「暗殺」を図っている者は、国家の政界だけではなく、「客観公正」の衣をまとった学術界にもいる。
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