靖国神社の鎮霊社の横には、「北関大捷碑」という碑がある。15世紀末、豊臣秀吉は2回にわたって朝鮮の侵略を試みたが、敗北した。戦争の勝利を記念するため、朝鮮人はこの碑を設けた。1905年、日露戦争の終結後、日本陸軍の池田少将がこの碑を発見し、日本に勝手に持ち帰り、朝鮮の軍と民衆によって贈られたものとこれを称した。2005年、韓日両国の外相会談において、日本の町村信孝外相は、この碑を韓国に返還したいと自ら申し出た。韓国の潘基文外相は、「もしもこの碑が無事に返還されれば、韓日関係にとってプラスとなるだけではなく、朝鮮の南北関係を改善することにもつながる。日本側の言行一致を希望する」と語った。町村外相はすぐに言い方を改め、「帰国後、靖国神社とよく話し合う必要がある。日本政府はきちんとこれを仲介し、最大の誠意で解決を促す」と答えた。だが現在に至るまで、日本が記念碑を返却する兆候はない。
政治的局面の揺れ動きに応じて、日本の歴史認識もまた曖昧模糊なものとなっている。記憶を守るためには、長期的見解や勇気だけではなく、時には生命を代価とすることさえ必要となる。記憶の「保護」と記憶の「暗殺」、懺悔と懺悔の拒否、双方の間の距離は遥か遠く、ほとんど無限にも思われる。(陳言北京社会科学院
「人民網日本語版」
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