1885年から1895年までの10年間、沖縄県は「国標」を建立することで釣魚島を管轄範囲に組み入れようと企て続けた。だが日本政府は釣魚島が「清国に属している」ことに鑑み、「国標」を建立すれば清国の警戒と争いを引き起こすことを恐れ、ずっと許可しなかった。甲午戦争(日清戦争)の勝利が目前となった時、日本政府は釣魚島列島を奪い取る時機が到来したと感じ、1895年1月14日の閣議で、沖縄県知事の上申に照らして島を沖縄県の所轄とし、標杭の建設を認める決定を秘密裏に行った。だが実際には沖縄県が釣魚島に標杭を直ちに建設することはなかった。井上清教授によると、1969年5月5日になってようやく沖縄県石垣市が長方形の石の標杭を建立した。日本の閣議のこの決定は秘密文書であり、57年後の1962年3月に『日本外交文書』第23巻で対外的に公表された。それまで清政府および国際社会は全く経緯を知らなかった。
つまり日本政府は長い間、釣魚島の領有権を公に主張しなかったのである。明治天皇は1896年3月の勅令第13号「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」において、釣魚島を明確に組み入れていない。だがこの勅令は日本側によって釣魚島の領有権を有する根拠の1つと見なされており、明らかに世界の人々を欺くものだ。
日本が釣魚島を「盗み取った」のは決して「平和的方法」によるものではない。近代植民地主義侵略の産物であり、甲午戦争での日本の戦略の一環なのである。中国侵略戦争の勝利を確信したからこそ、日本の内閣は釣魚島を掠め取り、続いて不平等な馬関条約が出現した。そしてまさに馬関条約を通じて、日本はいわゆる条約の形で、釣魚島を「盗み取る」行為の「合法化」を果たしたのである。この歴史過程は明らかで間違いがなく、歴史学者の共通認識である。
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