二、釣魚島は古くから中国の台湾の附属島嶼である
中国の歴史文献の記述から、「釣魚島は台湾の附属島嶼である」との事実は明確で間違いない。明朝の嘉靖四十四年(1565)に「日本国への宣諭使」鄭舜功が撰述した『日本一鑑』は澎湖諸島から釣魚島を経て琉球、そして日本へ至る航路を明確に記録。このうち釣魚島は中国の台湾に附属するとして「釣魚嶼、小東小嶼也」と明記している。小東島とは当時の台湾の呼称である。この航路は釣魚島と台湾など島嶼間の地理関係を正確に記録しているのみならず、釣魚嶼が台湾の附属小島であることを明確かつ誤りなく指摘している。『日本一鑑』は政府文書としての性質を備えた史籍であり、明朝政府が釣魚島列島が台湾に属する小島群であることを早くから確認していたことを反映している。
明・清両代、台湾は福建省の管轄下にあった。光緒十一年(1885)に清政府は台湾について、日本と西側列強の野望と侵略のために防衛状況が厳しく、「府」の行政地位では対処が困難であることから、台湾省の設置を決定した。省設置以前、釣魚島列島は台湾府の管轄島嶼として福建の海防範囲に組み込まれていた。
明の嘉靖四十一年(1562)に◆浙総督・胡宗憲の幕僚・鄭若曽が著した『籌海図編』の「沿海山沙図」は台湾、釣魚島、黄尾嶼(日本名・久場島)、赤尾嶼(日本名・大正島)等の島嶼が福建の海防範囲に属すことを記録している。万暦三十三年(1605)に徐必達らが作成した『乾坤一統海防全図』および天啓元年(1621)に茅元儀が作成した『武備志・海防衛二・福建沿海山沙図』も釣魚島などの島嶼と台湾を同じ防区として中国の海防範囲内に組み込んでいる。
清の康煕六十一年(1722)に清政府初の巡台御史に任じられた黄叔巷は、乾隆元年(1736)に「御史巡視台湾」として著した『台海使槎録』(『赤嵌筆談』とも)の巻二「武備」で台湾に属する各港を列挙。釣魚島を中国海防の最前線の要塞と見なした上、釣魚島が行政上早くから台湾府の管轄下にあることを示した。
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