『台海使槎録』は公文書であり、極めて影響力があり、その後多くの歴史家に引用された。例えば乾隆年間の『台湾府志』は基本的に上述の内容を引用して、「台湾の港」には「釣魚台島」が含まれるとしている。同様の記述は他の役人の記した公文書でも珍しくない。例えば乾隆十二年(1747)に時の巡視台湾兼学政監察御史・範咸が著した『重修台湾府志』は釣魚島などの島嶼がすでに台湾海防の防衛区域内に組み込まれ、台湾府の管轄下にあることを明確に指摘している。同治十年(1871)刊行の『重纂福建通志』は「台湾府・●瑪蘭庁」で「山の後ろの大洋の北にある釣魚台は、港が深く大船千隻が停泊できる」と記している。同様の記述は余文儀著『続修台湾府志』、李元春著『台湾志略』および陳淑均編纂、李祺生追加編纂《●瑪蘭庁志》等の史籍に見える。
この他、フランス人のMichel Benoist(中国名・蒋友仁)が1760年に作成した『坤輿全図』の「台湾附属島嶼東北諸島与琉球諸島」は彭嘉、花瓶嶼、釣魚嶼、赤尾嶼等を台湾の附属島嶼の中に配置している。日本の林子平が1785年に出版した『三国通覧図説』付図「琉球三省并三十六島之図」は花瓶嶼、澎佳山、釣魚台、黄尾山、赤尾山等の島嶼を中国の色で記しており、中国が領有することを物語っている。1809年にフランス人のPierre LapieとAlexandre Lapieの著した『東中国海沿岸図』は釣魚嶼と赤尾嶼を台湾と同じ赤色で描き、八重山、宮古群島と沖縄本島と緑色で描いており、釣魚台列島が台湾の附属島嶼であることをはっきりと示している。
以上をまとめると、日本側は釣魚島と中国の台湾との歴史的結びつきの分断に躍起になり、馬関条約の「台湾の附属島嶼」に釣魚島が含まれることも再三否認しているが、大量の歴史文献は中国政府が釣魚島を台湾の管轄下に組み込み、海防と行政の両面で釣魚島に対して長期間実効性ある管轄を実施してきたこと、釣魚島が無主の地ではなく、中国の台湾の附属島嶼であることをはっきりと示している。釣魚島列島は中国漁民が長期間経営しただけでなく、少なくとも明代中頃から中国政府が海防範囲に組み入れ始め、実際の管轄措置を講じてきた。この歴史事実は、日本の言う1895年1月の閣議決定による掠め取りよりも三百数十年早いのである。
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