三、釣魚島と甲午戦争及び「琉球処分」
日本の内閣が釣魚島列島を秘密裏に沖縄県の管轄下に組み入れたことは、甲午戦争と関係し、日本の「琉球処分」とも関係する。沖縄は元々琉球王国のあった地だ。琉球王国は独立国家で、明初から明朝皇帝の冊封を受けた、明・清期の中国の藩属国だ。明朝は洪武五年(1372)以降、歴代絶えず冊封使を琉球に派遣した。日本の幕府末期、日本と琉球に隣接する島津藩主が琉球に朝貢を強制したが、琉球王国は従来通り清政府に朝貢し、臣を称した。明治維新後廃藩置県が行われ、明治政府は軍国主義傾向を顕わにし始め、矛先を朝鮮、琉球、中国に向けた。それ以降、日本が様々な口実を利用して琉球、朝鮮、中国を侵略する出来事が時として発生した。1872年に日本は琉球漂流民が台湾南部で現地住民に殺害された事件を利用して、清政府の罪を問うた。琉球の民は日本の属民で、台湾南部の「蕃地」は無主の地という口実だ。日本の派遣した交渉使は清政府総理衙門大臣の述べた台湾の蕃地は「政教の及ばざる所」との概念を「政権の及ばざる地」へとすり替えた。1874年に日本は野蛮に荒々しく台南に派兵・侵入して、中日間に重大な交渉をもたらした。当時まだ清朝と国力で拮抗できなかった日本は、賠償金50万両(テール)を得ると撤兵した。台湾征伐と琉球侵略は同時に進行したのだ。1874年2月に日本政府の決定した「台湾蕃地処分要略」は琉球から清政府への朝貢を阻止するのは、台湾征伐以後の任務としてよいとしている。1875年、日本の天皇は清朝との冊封関係の断絶を琉球に強制的に命じた。1877年末、清朝政府の何如璋駐日公使は東京で琉球問題について考察した結果「朝貢阻止では止まらず必ず琉球を滅ぼす。琉球が滅べば朝鮮に及ぶ」「台湾と澎湖の間は、一日の安寧も得られなくなる」と指摘した。1878年10月、何如璋は日本外務省に口上書を提出し、日本が琉球の清朝への朝貢を阻止していることを「隣国の交わりに背き、弱国を虐げる」ものであり「信義も情理もない」と非難した。1879年、日本政府は軍隊を持たない琉球王国に武力を派遣して強制的に併呑し、沖縄県と改称した。これが日本史上、聞こえの良い言葉で言う「琉球処分」である。
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